私の半生 逆境 暴力 笑い それこそ本当に人が聞いたら笑ってしまう人生を、長い時間をかけて書いていきます。

小学校4年が終わり、5年生に合わせてC県の学校に転校

春休みも終わり、新学期新しい小学校へ転校した。

 

F県とのギャップに戸惑う彼

 

F県の学校では裸足
C県の学校では靴下をはかないといけない

 

ダッサイ通学帽をかぶり、靴下をはき、ピチピチの短パンを履いて登校した。
初日は両親が見に来ていた。(何故か分からないが)

 

指定された席に机を運んで授業が始まった。

 

皆、女言葉を話している。
男も女も
「きもちわるいなぁ」彼は思う

 

初めは構わず方言を話していたが、「〜ばい。」という言葉に
友達に反応されて何故か恥ずかしくなった。
そこは子供だ周りに合わせるようになるべく標準語を話すように心掛けた。

 

初めての友達であり、親友になったF君
初日に家が同じ方向だからという理由で一緒に帰った。

 

おかっぱで(男)髪がさらさらしていて、小太りで面白いやつだった。
Fとはすぐに仲良くなった。

 

以前の彼にはこんな友達は一人もいなかった。
初めてできた友達だった。

 

 

 

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環境の変化についていけない彼がとった行動は

この地に、この学校に、人に
なかなか慣れることができなかった彼。

 

何故かできることといえば虚勢をはる事くらいである。
全校生徒200人もいないF県の学校のマラソンで3位になったとか
散々喧嘩してきたから殴ってもこぶしに痛みを感じないだとか

 

F県から来た人間にこっちの子供たちは興味深々である。

 

学校でマラソン大会行われる事になった。

 

彼は内心焦りもありつつ何故か自信だけはあった。

 

この転校した小学校は学年だけでも200人以上学校全体で700人はいる学校だった。

 

マラソン大会当日、彼は頑張った
あれだけ虚勢をはっておいて残念賞は何とか避けたい。
初めは先頭から中盤の間に位置して、体力が切れた子たちを追い抜いて行った
だが、ゴール手前学校に戻ってくる為の最後の道で彼の体力に限界が来たのだ。
いや、正確に言えばただ苦しいことから逃げただけだったのだろう。
しばらく歩いて、先生の「もう少しだから頑張って!」激励に何とか答えて
43位くらいだったと思う。

 

周り空の視線が厳しかった。

 

F以外にこれといった友達もいない彼は自分の行動や失敗に対して
独り言を言うようになった。

 

周りは彼のことなんか全く気にもしていない。

 

寂しさが彼を一匹狼キャラへ導いていった。

 

関東に来てからも、ネグレクトや暴言暴力は続き、彼の奇行はますますひどくなっていく。

 

関東に来てからも学校生活は楽しいものではなかった。

 

彼は相変わらず親の財布からお金を抜き取り、窃盗など繰り返し

 

常に何か金目のものはないか物色して歩いた。

 

彼には居場所がなかった、家にいても彼の居場所は無く
ラックに彼が一番大切にしているカセットウォークマンと
当時聞いていた音楽をダビングしたカセットテープと小物少々だけ。

 

運よく家の中で寝られるときは、畳一畳文のスペースに新聞紙を
敷いて、さらに新聞紙にくまって寝ていた。
本当に待遇がいい時は、寝袋が支給された。
だが、基本的には玄関先から中に入れてもらえなかった。
お腹が減っていた。

 

たまに家族全員で食卓を囲むのだが
苦痛で仕方なかった。
何か粗相をしたら、大騒ぎ+摂関
逃げ場はない。
しょっちゅうちゃぶ台返しが起こり、彼もしくは母に
酷い暴力が行われた。
腫れに対する父からの摂関は何時間にも及んだ。
玄関で彼は丸まり、ゴムサンダルを履いた父が何時間も蹴り続ける
踏みつけられる。
「いつか終わる いつかおわる」
彼は暴力を受けているときいつしかこんな風に考え、耐えるようになった。
いつか終わる

 

彼は傷んだ体を引きずりダッサイ朱色の通学帽をかぶり、学校へ行く。

 

*書いてるときに思ったのですが、同じことを書いているかもしれませんが、
  彼の思いがあふれているのでご容赦下さい。

 

母も言い返さなければ、殴られることもないのに
言い返すものだから殴られる、締め上げられる等

 

ある時は顔面を殴られ、母の目の周りは真っ黒になって腫れあがり、
それでも病院にもいかず、眼帯をしてヨークマートで働いていた。

 

父はそれなりの給料はあるものの
それの半分は、部下や同僚に飲み代金を使い、家の食費は
母のパート代で賄われた。

 

もちろん関東に来てからこんな調子だから
彼ら兄弟は、習い事や塾などに行けようもなく、なんとか食べていくだけ。
食べられたことには感謝しなければならない。

 

姉は先を見ていたのだろう、毎日勉強を鬼のようにやっていた。
こんな風にはなりたくないと努力していたのだろう。

 

 

 


 
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